エビル・コスチューム (5/6)
それは、あっという間の出来事だった。
「リエ……? 何してるの? 早く逃げて!!」
突然、自分たちの前に立ちはだかった悪魔姿の女性に向かって、カンナは叫んだ。
ジャック・オー・ランタンを被った黒衣の男は、銃口を真っ直ぐリエに向けている。
だが、リエは逃げなかった。彼女は大声で言った。
「あーあ、楽しいお祭りが台無しじゃない。せっかくいい気分だったのに!」
声には怒気が込められていた。事実、彼女は怒っていた。
リエの言葉をかき消すように、カボチャ頭の男は銃を撃った。弾丸は彼女の左腕をかすめ、後方のスターバックスの窓ガラスを割った。黒いレオタードスーツが裂け、彼女のパープルの肌が露出した。
リエはそれを全く意に介さない様子で、無防備にカボチャ頭の男に向かって歩いて行った。
「リエ! 危ない!!」
カンナがまた叫ぶ。
黒衣の男が拳銃を連射した。だが不思議なことに、銃弾は一発もリエに当たることはなかった。銃口から飛び出した弾丸は、リエの体に達する前に、宙空で消滅していた。
なんだ、この女は。
男は焦燥を感じていた。たった今まで、誰もが自分に怯えていた。引き金を引くだけで簡単に人が死ぬことに、彼は快感を覚えていた。なのに突然、悪魔のコスプレをした妙な女が、自分に立ち向かってきた。まるで、男のことなど恐れるに足りないと言うかのように。
なぜ、銃が効かない。
撃鉄がカチカチと音を立てた。男は装填した銃弾を撃ち尽くしてしまった。
男の脳内に巣食う謎の黒い影が、大きな警鐘を鳴らしていた。それに呼応して、男は本能的に強い危機感を感じた。
悪魔姿の女――リエが、男に近づいてくる。もう男との間の距離は数歩もない。
男は拳銃を放り、コートの内ポケットからサバイバルナイフを引き抜いた。腰だめに構え、リエの左脇を狙って思いっきり突き刺す。
リエはナイフを左手で受け止めた。ナイフの刀身が飴細工のようにぐにゃりと曲がる。男は、彼女に傷ひとつ付けることができなかった。男が突き出した右拳は、リエに掴まれることになった。
リエはそのまま男の懐に入り、彼の胸部に鋭い掌底を放った。掌は男の胸を数センチ陥没させ、男を十メートルほど後方に吹っ飛ばした。男は背中から倒れ、天を仰いだ。と見えた直後、男は人間離れした動きで体全体をひっくり返し、蛙のような四つん這いの体勢になった。
男の全身から、よりいっそう凶々しいオーラが放たれていた。
「コロ……シテヤル」
男は呪詛のような言葉を吐き、四つん這いの体勢から全身のばねを使って、あり得ない速度で前方に跳躍した。一直線に、リエが立っていた空間を薙ぎ払う。リエはふわりと黒い羽根をはためかせ、左上空に避けていた。
リエはそこから空中でくるりと前方宙返りをして、カボチャの面を被った男の首の付根に、右の踵を振り下ろした。その威力は、まるでクレーン車が大きな鉄球を地面に落としたかのようだった。男を中心にアスファルトにひびが入り、衝撃波が戦いを見守っていたカンナにまで達した。
カボチャ頭の男は、ぐったりとうつ伏せに倒れた。普通の人間であれば、即死していただろう。男の手指が、ぴくぴくと痙攣していた。
リエがカンナたち二人の前に立ちふさがり、カボチャ男を制圧するまで、一分にも満たない出来事だった。
リエは、気絶している男の頭に向かって上体を屈めた。続いて、男が被ったジャック・オー・ランタンを紙切れのように引き裂く。そして、そのまま地面に膝をついて、男を仰向けに抱え起こした。
男は、二十代前半から半ばほどと見られた。顔面には血管が浮き出て、赤黒く変色していた。頭髪は逆立ち、さながら羅刹か鬼のようだった。
「低級悪魔のくせに、手を焼かせてくれたわね。……さあ、お出でなさい」
リエは男の顔に右手をかざし、鈴の音のような声で何事か唱えた。
ややあって、男の口からドロリと、黒いサンショウウオのような姿の何かが抜け出してきた。リエは、それの体を素早く右手で捕まえた。
「ここで滅してしまうのは簡単だけど、私がやると角が立つから……。向こうの世界にお帰りなさい」
リエは、両手でその黒い生き物を空に掲げた。それはふつっと虚空に消えた。
先ほどまで、カボチャの面を被っていた男の様子が変化した。まるで憑き物が落ちたかのように、本来の穏やかな表情を取り戻し、安らかな寝息を立てていた。
「マサキ……リエが助けてくれたよ。ねえ、聞いてる?」
カンナの目から涙がこぼれ、マサキの頬を濡らした。その腕に抱かれたマサキは、しかし、返事をすることはできなかった。
彼はもう、呼吸をしていなかった。その体からは、徐々に命の温もりが消えつつあった。
リエが、カボチャの男を撃退して戻って来た。激しい戦いの直後にも関わらず、彼女は息ひとつ乱していなかった。
この子は何者なのだろう。本物の悪魔なのだろうか。
少なくとも、カンナにはもう、同じ人間とは信じられなかっただろう。だが、何者だろうと、カンナにとってリエはリエだった。
「リエ……、マサキが……。マサキが動かないよぉ……」
カンナの視界は涙で歪んでいた。
リエは頷いて、カンナの前で跪いた。
「……ごめんね。まさか、こんなことになるなんて。招かれざる者のせいで、多くの命が失われてしまった。残念だけど、全部なかったことにするしかないわね」
リエの口調は、三人で遊んでいた先ほどまでとは違って、大人びていた。
「リエ……? 何を言ってるの……?」
「今日はありがとう。本当に楽しかったわ」
リエは立ち上がると、何もない空間から木の杖を取り出し、天を仰いだ。そして、祈りを捧げるかのように長い呪文のような言葉を唱えた。
杖全体が淡い光に覆われ、その上端から眩い光が発せられた。杖に呼応するように、リエ自身の体も仄かな黄金の光に包まれていた。
……眩しい。
カンナは目を細めながらも、視線をリエから外すことはしなかった。
リエの体に変化が起こった。髪が銀色から金色に、角と尾は消え、肌は薄紫色から小麦色に、黒いコウモリの羽根は、純白の翼に変わった。着衣も、黒いレオタードスーツから、白いワンピースに変化した。
「天使……?」
カンナが呟いた。リエはくすっと笑った。
「ハロウィーンにちなんで、ちょっと仮装してたの」
リエは光輝く杖の先端を高く天に掲げた。光の奔流が溢れ、カンナの視界は真っ白になった。全てが白い光に覆われ、目の前にいるはずのリエの姿さえ見えなくなってしまった。
真っ白な光の向こう側から、リエの声が聞こえた。
「私の本当の名前は、アウリエルって言うの」
しかし、その言葉をカンナが記憶することはなかった。
渋谷の街は、眩い光の奔流に包まれた。
(第六話に続く)
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