生と負(7/9)

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 広い部屋だった。手前側に低いガラステーブルを挟んで、二脚のソファがあり、奥に大きなデスクがあった。学校の校長室のようだ、と清香は思った。
 デスクに、壮年の男が腰掛けていた。どうやら、この施設で最も権威を持つ人物と見えた。ここが何かの研究所だとしたら、「所長」とでも称するべき人間だ。彼は目の前のパソコン越しに清香たちを見ていたが、声を発することはしなかった。
 坂下が「所長」に歩み寄って、いくつか説明をした。
「男子の方はオオカミについて詳しいようです。あれがオオカミだと、確信しているような口ぶりでした。それと、例の事件についても関連を疑っているようです」
 「所長」は険しい表情で、坂下の言葉にわずかに頷いた。
 坂下の話が終わると、「所長」は席を立った。入り口付近で立ち尽くしていた悟たちに、「まあ座りなさい」と言うと、自らも上座側のソファに座った。そして、坂下にお茶を用意するように指示した。
 坂下が退室した後、「所長」は手を組み、俯くようにして話しだした。
「本来なら、名刺の一つでも渡すところなんだが、君たちはここがどこかも知らないだろうから、私が誰かも知らない方がいいだろう。いやはや、このような出会いの形になってしまって、本当に残念だよ。ここがどんな理念で作られた場所で、私たちが何のために働いているのかも、説明するわけには行かないとはね」
 「所長」はそう言った。後に清香たちは別の形でこの施設と、ここで働く職員について知ることになるが、この時点での「所長」は、それを夢にも思いはしなかった。だから、彼自身、子どもたちに名前を訊くこともしなかった。
「狼には詳しいのかい?」
と、「所長」が悟に尋ねた。
「詳しくなったのは、この二日間のことです」
と、悟は答えた。なるほど、と「所長」は頷いた。
「……さて、何から話したものかな。結論から言えば、あれはニホンオオカミのクローンだよ」
 「所長」がさらりと語った真実に、清香は衝撃を受けた。一方で、悟は相変わらず平然とした表情をしていた。
 その頃、四つのカップをトレイに載せて、坂下が戻ってきた。坂下はテーブルにカップを並べると、自身は「所長」の隣に腰を下ろした。
 クローン技術の歴史は古い。受精後、間もないウニの初期胚を分割することで、人工的にクローンを作成した初めての研究は、1891年に行われた。その後、胚細胞核移植や、体細胞核移植といった手法が生み出され、カエルやヒツジのクローンが誕生した。1996年に「ドリー」という名のクローン羊が誕生し、世界的に大きなニュースとなったが、それは成体の体細胞を使った初めての体細胞クローンだったからである。
 体細胞クローンは、細胞の核を取り出すことが必要条件であるため、理論上は死骸のクローンも作成することができる。実際に、国内のとある研究グループは、マウスの凍結死骸からクローンを作る研究を行っている。
 「所長」らは、これを絶滅種であるニホンオオカミに応用した。核を得るための体細胞は、関係者のつてを利用して、非合法な手段で入手したらしい。何度か失敗を繰り返し、四度目の実験で、ようやく仮親の母胎から出産するところまで漕ぎ着けた。その一頭は生後間もなく死んでしまったが、五度目の実験から生まれた個体が、唯一、一年間以上生存することができた。『ファイブ』というコードネームで呼ばれたその個体が、忌まわしい殺傷事件を起こし、悟の手によって捕獲されたオオカミだった。

(第8話に続く)