生と負(8/9)

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「罪を償おうとは考えていないんですか?」
 そう尋ねたのは清香だった。「所長」は大きく息をついた。
「私の首一つで済むのなら、そうするんだがね。このプロジェクトには、我々の夢が懸かっているんだ。今更、事実を公表するわけにはいかん」
「それで、野犬の仕業に見せかけようとしたんですね」
 そう悟が言った。その言葉に、大人たち二人の表情が凍りついた。清香もまた、息を呑んだ。
「山に野犬を放ったんですか!? 自分たちの疑いを晴らすためだけに、危険な犬を」
 清香の声には、自然と怒気が込められていた。
 坂下は頭を抱えた。「所長」が平静を保って答えた。
「大事の前の小事だよ。私たちは、私たちの利益と安全のために、最善の手を打った」
「そんなのって……!」
 納得できません、と清香は目に涙をためて言った。気づくとソファから立ち上がっていた。
 「所長」はそんな清香の姿を見ても、少しも慌てた様子を見せることはなかった。
「これ以上、話すことはない。納得が行かないというのなら、家に帰るまで眠っておきなさい」
 坂下が言葉を継いだ。
「なるべくなら手荒なことはしたくない。大人しくしているというなら、来た時と同じように目隠しをしてもらうよ」
 暗に、従わない場合は何らかの手段で眠らせると告げていた。清香はわずかに恐怖を感じ、その後に憤りを感じた。あの小さな女の子は、こんな身勝手な大人たちのために死んだというのか。この人たちは間違っている、と清香は思った。狂ってさえいるのかもしれない。
 悟が清香の手を引いていた。清香が振り向くと、少年は無言で訴えていた。ここで争っても、何にもならない、と。

 そのとき、室内に電話の音が鳴り響いた。「所長」のデスクに置かれた電話だった。坂下が率先して立ち上がり、デスクに駆け寄って電話を取った。
「はい、坂下です。……なんだって!?」
 坂下は受話器を片手で押さえ、振り返った。表情が青ざめていた。
「警察とマスコミが、ここを取り囲んでいるそうです。もう受付に来ていて、所長に面会を求めています」
 所長は声を失った。
 そのとき、悟がにやりとしたことに、清香は気づいた。
「お前が何かしたのか?」
 坂下が受話器を放り出して駆け寄ってきた。
 悟は坂下の上着のポケットを指差した。そこには、悟と清香の携帯電話が入っているはずだった。坂下の額から、どっと汗が噴き出した。
「『安心ケータイ』って聞いたことありませんか? 親が子どもに持たせるもので、GPSを利用して位置情報を共有できるものなんですが、無料のアプリでも同じことができるんですよ」
 悟はこの事態を前もって予期していたのだ。そして、予め信頼できる友人に頼んでおいた。自分が連れ去られたら、警察と報道機関に知らせてくれ、と。その友人は、スマートフォンの位置情報共有アプリで、悟の現在位置を把握していた。
 最早、名前を隠す意味も失った研究所の所長は、呆然として天を仰いだ。
「終わったか……」
 遠くから、パトカーのサイレンの音が聞こえてきた。

(第9話に続く)