現代詩とは何か

「現代詩」を扱っているのは現代詩手帖だけだと、現代詩手帖8月号の記事にあった。
では、現代詩とは何だろう、と思ってWikipediaを引いてみると、思いのほか示唆に富んでいた。

現代詩は、近代詩の形式主義化、耽美化などへの反省により、20世紀初頭に生まれた詩をさす。現象学実存主義に影響を受けた哲学的な内容、性や暴力など近代詩が扱わなかったタブーへの切り込み、日常とかけ離れた特異な言葉遣いによる異化作用、などが特徴的である。

一つには、それまでに近代詩との対比があるようだ。近代詩は朔太郎や島崎藤村宮沢賢治らの自由詩で、明治から昭和初期に詠まれたものをそう呼ぶことが多いそうだ。

このように、近代詩からの脱却を目指したものでありつつも、Wikipediaには、重大な課題が提起されている。

(中略)しかし作家が新しい表現や個性を追求したことで、現代詩は難解なものとなり、次第に読者を失っていくこととなった。
(中略)これら現代詩の手法もまた、形式化、固定化してしまい、現代人の心情からかけ離れたものになってしまった。詩作というものは、気軽に行えるものでも、ありのままにでもなく、奇怪で独善的な「詩的境地」に自己を落とし込まないと書けないという詩の矮小化が生じてしまったのである。

表現を追求するあまり、読者を失い、現代人の心情からも離れているとすれば、現代詩は間違った方向に進んでいると思わざるを得ない。
形式化というのは、「こうあらなければならない」というものだろうか。
詩壇は現代詩に、難解さを求めているのか。

インターネットで少年少女が紡ぐ詩の方が、よほど現代に生きる人々の心情を歌っているのではないだろうか。
それを否定し、切り捨てようとすることは、自らが時代に切り捨てられ、死んで行くことに向かっているような気さえする。
そこに集まる言葉に嘘はないのだから、詩壇は彼彼女らに、道を示すべきではないだろうか。

Wikipediaではこう続く。

私秘性、難解性から現代詩は生命力を失い、各詩人が孤立して先細るという状態が現れ、それを打破しようと集団無意識や民俗の世界に回帰しようという動き、形式的な伝統詩を復活させようという動き、インターネットを利用としたコラボレーションの動きが見られるが、その行き先は未明である。

その行き先が明るいものであることを願う。