詩を書く意味
「誰でもできて、すぐにでも始められる。それが詩だと思う。」
と、昔つぶやいたことがある。
ある人によれば、日本では大衆が詩を書く文化が根付いているのだそうだ。
確かに、学校教育の中で詩(俳句、短歌を含む)を書いたことがない人はおそらく稀だろうし、公共マナーや企業のキャンペーンで、川柳や短歌、歌詞などが募集されることもある。
また、インターネットはそれに拍車を掛けていると思う。
私のようにブログで詩を綴る者もいるし、投稿サイトに書き込む者もいる。国内大手SNS mixiの大きな詩のコミュニティでは毎日何十という詩がアップされる。
日本国内で日々生み出されている詩は、ちょっと想像してみると万は超えているような気がする。
そうすると、少なくとも一万人に一人が毎日詩を書いている計算になる。
つまり、それだけ普及しているわけである。
それだけ手軽に作ることができる。
みんなそれぞれ、理由があって詩を書いていると思う。
ただ書くのが好きな人もいるだろう。今日あったいいことや、思い悩んでいることを、詩という形で表現したいという人、あるいはそれが習慣化している人もいるだろう。
芸術としての詩を突き詰めたい人もいるだろうし、詩を書くことを生業にしている人もいるかもしれない。
基本的には、「好きにして下さい」と思っている(笑)
書かされるものではないし、誰がどんな理由で書いたものだろうと、好きな詩は好きだし、嫌いなものは嫌いだ。
ただ、詩や詩壇の社会に対する位置付け、詩人という職業の将来性を考えると、それだけではいけないのかなーという気もしている。
これだけ人口に膾炙している詩であるにも関わらず、詩というもののなんと人気のないことか。
詩誌の発行部数は同人誌レベル、詩集が売れるのは稀、詩人という存在が持てはやされることはほぼない、という現状である。
一つには、これを変えるには、世の中に対してもっとインパクトのあることを、詩壇や詩人たちが行う必要があると思う。
もう一つは、人々に必要とされている「詩」の形があるのではないか、と思うことがある。
別に「詩を書く意味」を凡ての詩人に強制するつもりはさらさらないが、一つの物の見方だと思って受け止めてもらえればいい。
一つ目の、インパクトのあることの例としては、一般の人も巻き込んだ大々的な詩のイベントを行ったり、当代の詩人の傑作を集めた詩集を出版したりすることなどが考えられる。詩のボクシング大会は、このイメージに近い。
とはいえ、これらのような一大プロジェクトに色んな人を巻き込んで実現に結びつけるまでには、並々ならぬ苦労が想像される。
もう一つについては、例えば被災地に詩を送るようなことである。ここでいう被災地は、東日本大震災だけでなく、つい最近も起こった雲南省での地震や、ハリケーン「アイザック」なども含む。
ややもすればお節介になるのかもしれないが、歌が人に力を与えられるように、詩だって人を元気にできると思うのである。
それはもちろん、自己満足であってはならない。
被災という形でなくても、言葉を必要としている人はたくさんいると思う。
言葉に勇気をもらったり、慰められたり、救われたりする機会は誰にでもある。
そんな人に、素晴らしい言葉を届けられる人こそ詩人ではないだろうか。
そんな詩であれば、未来になくなることはない。