風の駅(1/3)

 そこは、風の駅と呼ばれていた。

 山間の窪地だった。四方に延びる道から風が吹き込み、また、出て行く場所だった。
 ヴェントは今日も馬を駆り、一人でこの地を訪れていた。山は春を迎え、色とりどりのイチリンソウが風の駅を彩っていた。馬から下りると、彼は草むらで大の字になった。そして、草花が薫る風を思いっきり吸った。
 ここでなら、誰の目も気にせず、思いっきり羽根を伸ばすことができる。付近の村に住む者から場所を教えてもらって以来、ヴェントはすっかりここが気に入ってしまった。来て、特に何をするということもない。ただ、落ち着ける場所であるというだけで、ヴェントにとっては貴重だった。
「あなた、誰?」
 唐突に声を掛けられ、ヴェントは驚いて身を起こした。蒼い髪をした年端もいかない娘が、大きな瞳を見開いてこちらを覗き込んでいた。
 美しい娘だった。人形のように目鼻立ちが整っており、透けるような白い肌をしていた。
 どこの娘か、ということより先に、どうやって現れたのか、というのがヴェントにとって不思議だった。足音はおろか、人の気配を全く感じなかったからだ。
「君は――?」
 気づくと、逆に問い返していた。
 蒼い髪の少女はくすっと小さく笑うと背中を見せ、軽い足取りで北の道に向かって駆け出した。ヴェントは慌てて後を追った。
 しかし、岩場の陰に回り込んだときには、少女は跡形もなく消えていた。

「ほう! そいつは珍しい。あんた、きっとシルフに会ったね」
 そう語ったのは、風の駅の場所をヴェントに教えてくれた男、アントンだった。
 ヴェントは少女に出遭った二日後に、村の酒場を訪れていた。
 シルフは風の精の名だった。気まぐれで滅多に人前に姿を現すことはないが、雨雲を運ぶ大切な存在だと言い伝えられていた。ここ十年ほどの間、村人の誰も姿を見た者はなかったが、人々がその存在を忘れることはなかった。
「昔は人が神隠しにあったときは、『シルフになっちまった』なんて言ったもんだ」
 酒を飲み干しながら、アントンが言った。普段のヴェントなら根も葉もない民間の伝承と聞き流すところだったが、実際に不可思議な現象を目にした今は違っていた。「シルフは秘術で人を仲間に引き入れてしまう」とアントンが口にしたとき、「それは誠なのか」と思わず聞き返してしまっていた。
「それが誠ならば、あの娘に尋ねて確かめてみよう」
 ヴェントが言うと、アントンは笑った。あんた、もう一度シルフに会う気かい? よした方がいい。あいつらは一度姿を見せた人間には二度と見せないよ、と。しかし、ヴェントはその言葉は信じなかった。

(第2話に続く)