エビル・コスチューム (3/6)

目次


 ここはどこだ。

 井の頭線の上り電車の中で、ジャック・オー・ランタンを被った男は意識を取り戻した。
 そうだ。渋谷に向かっていた。
 昨夜、デスクで一度意識を失ってから、記憶が途切れがちだった。頭がずきずきと痛む。
 男は右手でコートの中にある物を確かめた。硬い拳銃がそこにあった。反対側の内ポケットには、サバイバルナイフが収められている。
「ママ、ジャガランタンだよ」
 高井戸駅で乗り込んできた親子が、男の頭を覆うカボチャの被り物を指差して言った。
「やめなさい。……すいません、うちの子が」
 母親らしき女が男に謝る。
「……」
 無言の男の胸中で、理由もなく黒い感情が沸々と湧き上がっていた。
「ジャガランタン、ジャガランタン♪」
 ハロウィーンらしい模様のマントを着けた子供は、はしゃいだ様子でその言葉を繰り返した。
 カボチャ頭の男は、その子を睨みつけた。
「……黙れ。殺すぞ」
 くぐもった声は、はっきりとは聞き取れなかったかもしれない。
 だがその声は、車両内の空気を沈黙させるには十分だった。

 男は渋谷駅で電車を降りると、改札を抜けて左手の長いエスカレータに向かった。人混みがひどい。仮装をしている人も二、三割はいる。エスカレータ付近にたどり着くまでに、何度か人にぶつかった。
 エスカレータの降り口に長蛇の列が出来ていた。いつもなら、エスカレータの右側は通れる時間帯だが、今日は右側も人で埋め尽くされていた。
 ゆっくりと列の最後尾につこうとした男の前に、有名なゲームのキャラの仮装をした、大学生ぐらいの男子グループ数名が割り込んできた。
「……どけ」
 男の声は、男子グループの喋り声にかき消された。後方にいた一人だけが、ジャック・オー・ランタンを被った黒衣の男に気づいた。
「はあ? 何だよ、お前? ちゃんと並べよ」
 カボチャ頭の男は、その男子学生の首を両手で鷲掴みにした。
「うっ……、はな……せ……」
 男子学生の体が持ち上がった。周りの男子もそれに気づいた。「おい、やめろよ」一人がカボチャ男の腕を取ろうとしたが、逆に体当たりを受けて吹き飛ばされてしまった。
 カボチャ男は、男子学生の首を掴んだまま、エスカレータの下方に目がけて放り投げた。学生は大柄ではないが、体重六〇キロはあっただろう。その彼を軽々と投げ飛ばした男は、相当の腕力の持ち主と思われた。
「うわああぁっ!!」
 投げ飛ばされた学生と、周囲の人々から一斉に悲鳴が上がった。男子学生は、エスカレータの真ん中辺りを降っていた人たちの頭上に落下した。
「ヒロキ!!」
 男子グループの何人かが叫んだ。男子グループは、カボチャ男をなんとかしようと思ったものの、怖気づいたのか、お互いに顔を見合わせるばかりで動こうとしない。
 カボチャ男は、男子グループの真ん中を突っ切ってエスカレータの降り口に進み、これから降りようとしていた人たちの背を、思いっきり蹴り飛ばした。
 更なる悲鳴が上がった。エスカレータに密集した人々が、将棋倒しに倒れて行く。
 カボチャ男はその人々の頭や肩を、無情にも踏みつけながら、下階へと降りて行った。

 カボチャ頭の男が地上に着くころ、付近の警備をしていた二名の警官が、騒ぎに気づいて駆けつけてきた。
「そこのお前、何やってるんだ!!」
 一方の警官が、警棒を持ち、足早に駆け寄って来る。その後ろから来るもう一人は、手錠に手を掛けていた。
 カボチャ男は迷わず拳銃を懐から取り出し、パンパンと、計四発を連射した。二名の警官は、急所に被弾して即死した。
「じゅ、銃を撃ったぞ!!」
「やべぇ、こっち来る!? 逃げろ!!」
 パニックが起こった。人々はカボチャ男から遠ざかろうと、我先に駆け出した。

 ……殺してやる。こいつらみんな、殺してやる。

 男は完全に理性を失い、湧き上がるどす黒い感情に支配されていた。
 だが、それほどまで強い感情がどこから来ているのか、男に自覚はなかった。

 男の脳内に巣食った黒い影は、人間の負の感情を養分として、ゆっくりと成長を続けていた。

第四話に続く)


小説家になろう掲載作品

ハロウィーン特別企画・短期連載小説「エビル・コスチューム」に寄せて(目次込み)

もうすぐハロウィーンですね!
みなさん、準備はばっちりでしょうか。

さて、月曜からハロウィーン特別企画と称して、新作の短編小説の連載を行っています。

『エビル・コスチューム』目次

第一話 / 第二話 / 第三話 / 第四話 / 第五話 / 第六話 / あとがき

Twitter小説家になろう の活動報告ではお知らせをしていますが、ブログだけを見てらっしゃる方にはわかりづらいかな、と思いましたので、こちらでも案内を出しておきます。

上に目次を出していますが、全体で1万字ほどの短編となります。
今週 10/26 月曜から、ハロウィーン当日の 10/31 土曜まで、全六話に分けて投稿していきます。

リエという、悪魔の格好をした女性が主人公です。
ジャンルとしては、現代バトル・ファンタジーになるかと思います。

こんなハロウィーンは、現実では起こり得ないと思いますが、仮装した人々に混ざって、本物の悪魔や妖怪、化け物がもしいたら……と想像してみると、面白いかなと思いました。

きっと今年も、都心では賑やかなハロウィーンとなるでしょう。
悲しい事件や事故が起こらないことを、切に願います。

それでは、土曜まで本連載をお楽しみいただければ幸いです。

Happy Halloween!!

エビル・コスチューム (2/6)

目次


「マサキ、やる気なさすぎ」
 カンナは待ち合わせに遅刻して来たマサキに、容赦ない駄目出しをした。カンナと同じ専門学校に通う彼は、ドン・キホーテで買ったらしい囚人服の上下を着ただけだった。
 そもそも、ハロウィーンは大人のコスプレイベントではないのだが、なぜか東京ではそういうものになっている。
「悪ぃ、バイト長引いちまった」
 カンナはポーチから白いファンデーションとアイライナー、パウダーを取り出し、有無を言わさずマサキの顔にメイクを施した。目の下に隈を作り、顔色を変えて多少、雰囲気を出すことが出来た。「サンキュー」と、マサキ。
 「見てみなよ、あの子」と、カンナは先ほど見つけた悪魔姿の女子を指差した。
「うわ……ハンパねぇ」
 マサキは息を飲んだ。カンナは同意して頷いた。

 二人のやり取りは、当の本人の関心を惹いたようだ。悪魔女子は静かに歩み寄ると、カンナたちに話し掛けてきた。
「……私、何か変?」
 カンナはどきっとして後退りした。彼女は人間ではあり得ないパープルの肌を持っていたが、間近で見ると紛れもない美女だった。
「い、いやぁ。すごいカッコいいよ。映画のキャラみたい」
「ほんと!? やったぁ!」
 彼女が無邪気に喜ぶので、カンナとマサキは呆気に取られた。
「……にしても、その羽根とか尻尾すげえな。生きてるみたいだ」
「えへへ、そりゃそうだよ。本物だからね」
 マサキの言葉に、彼女は軽い口調で答えた。カンナは声を上げて笑った。
 悪魔姿の女子の名前はリエといった。リエは不思議な女性だった。
「お菓子ちょうだい」
 彼女は唐突にそう言って、両手を前に出した。
「は……?」
 マサキが目を白黒させる。
「今日は人間が悪魔にお菓子をくれる日なんでしょう?」
「あ、あー。ハロウィンだから? そういや元々はそんなだっけ」
 マサキもカンナも、最早ハロウィーンのことは「大人がコスプレをしても許される日」としか思っていなかった。
 カンナはごそごそとポーチをあさった。
「じゃあ、ハイ。これあげる」
と、たまたま入っていた飴玉をリエにあげた。
「ありがとう!」
 リエは嬉しそうに飴玉を頬張った。
「リエは暇なの? これから、ウチらと遊ぶ?」
 なんとなく行く当てがなさそうなリエに、カンナは提案してみた。
「え、いいの? 私お金とか持ってないけど」
 確かにリエの服装からは、財布などを隠し持つ余地がないように見えた。
「大丈夫、大丈夫。こいつが全部払うから」
と、カンナはマサキの肩を叩いた。
「えぇっ。せめて割り勘にしようぜ」
 慌てた声で言うマサキ。ケチくさい男だ、とカンナは思った。

 三人はまず、渋谷EST三階のボウリング場に行った。
「えっ! ボウリングやったことないの?」
 リエの言葉は、カンナとマサキを驚かせた。
「うん。何、ボーリングって?」
 この日本に、ボウリングをやったことがない大人がいるとは。マサキは驚きつつも、ボールを選ぶところから、できるだけ丁寧に教えた。彼はまず、彼女に手頃な大きさのボールを取ってあげようとした。
「自分に合った重さのボールを選ぶんだよ。リエちゃんは8ぐらいでいいんじゃない……って、えぇ! そんな重いの持てるの!?」
 ふと見ると、リエは一番重い十六ポンド球を軽々と片手で持っていた。
「このぐらい、軽いよ」
 彼女は得意気な顔で言った。見た目よりもかなり力持ちらしい。
 マサキは次に、ボールの投げ方と、的となる物について説明した。
「レーンの一番奥にピンが並んでるでしょ? アレをなるべくたくさん倒すんだ。ボールはこう、転がすような感じで」
「わかった」
というリエは、あまりマサキの話を聞いていないようにも見えた。
 リエは低い構えからまるで円盤投げのようにして、十六ポンドのボールをサイドスローで投げ放った。ボールは床に付くことなく一直線に飛んでいき、十本のピンを粉々に打ち砕いた。やけに大きな破砕音がボウリング場に響き渡った。
「ハ、ハハ……ストライクだね」
 マサキは引きつった声で笑った。頭上のモニタにストライクを示す「×」のマークが示された。レーン奥のピンセッターは壊れてしまったようで、ウィーンと機械音を鳴らしながら、空回りし続けた。
 マサキが叫んだ。
「店員さん、すいません! このレーン壊れてるみたいなんで、変えてもらってもいいですか?」
 その後、リエは二人がボウリングをしている様子を、ずっと見学することになった。

 ボウリング場から出た後、三人はすぐ近くのカラオケ館に行った。
「リエ、何歌うの?」
 カンナが訊くと、リエは不思議そうな顔をした。
「人間の歌はわかんないな」
「何その悪魔キャラ設定? ウケるんだけど」
「そう、私は悪魔よ。地獄の最下層コキュートスから来たの」
 リエがやけに真面目な顔で言うので、カンナはまた笑った。
「面白いけどさあ。――で、何歌うの?」
 マサキがカラオケの端末を操作しながら訊ねた。
 リエはしばらく考えこんだ後、何かを思いついたようだ。
「あ、あれならわかるわ」
「なになに?」
 カンナとマサキは、身を乗り出して訊いた。
「アベ・シンゾー……間違えた。アヴェ・マリア
 二人はがくっと肩を落とした。
「……賛美歌みたいなアレ?」
「……全っ然、悪魔っぽくないじゃん」

第三話に続く)


小説家になろう掲載作品

エビル・コスチューム (1/6)

目次


 どうにでもなってしまえばいい。

 安アパートにある居室で、男はぼうっとパソコンのモニタを眺めながら、煙草をくゆらせていた。デスクの上は雑然としている。
 キーボードの左側に、サバイバルナイフと拳銃があった。拳銃はインターネット上の、とある掲示板サイトで知り合った人物から、男が購入した物だ。
 弾丸は百発ほど買った。それだけの量の弾を何に使うのか。そんなことは訊かれなかった。弾丸は予備の弾倉にも充填しておき、残りはばらで持つことにした。
 男が最後に失職してから、三ヶ月が経っていた。貯金はもう、底をついていた。次に家賃を支払わなかったら、このアパートからも追い出されるだろう。
 だが、もうどうでもいい。男にとってはそうだった。
 カレンダーを見る。今日は十月二十九日、木曜だ。明日の夜はハロウィーンのイベントで、都内各所はお祭り騒ぎになるだろう。おめでたいことだ。

 最後に派手なことをやろう。
 男はそう思っていた。彼は人が密集するところに行き、騒ぎを起こすつもりだった。そして警察に捕まる前に、銃で自殺しよう。そう思っていた。
 ハロウィーンにちなんで、男は仮装も用意した。ネットショップで、神父風の黒い上下のコートと、頭をすっぽりと覆うジャック・オー・ランタンの被り物を買った。来月のクレジットカードの引き落としは失敗するだろうが、彼の知ったことではない。

 煙草の煙に紛れて、黒い影が室内に侵入してきたことに、男は気づかなかった。そのトカゲのような影は、彼の腰掛ける椅子からその肩へよじ登り、するりと左耳の穴の中に入り込んだ。
「う……」
 男は呻き声を上げて、昏倒した。


 渋谷の街中に、完璧な悪魔の女が現れた。

 十月三十日金曜日、十六時ごろ。
 都内の専門学校に通うカンナはゾンビ・ナースのコスプレをして、同級生のマサキを待っていた。
 渋谷駅のハチ公口近辺の人口密度について、予想はしていたが、来てみると実際には予想以上にひどかった。今日は金曜日だから、これからますますひどくなっていくだろう。
 カンナは自分のメイクと仮装の仕上がりに満足していた。去年は準備不足だったが、今年は丸一日予定を空け、メイクに十分な時間が使えた。手足と顔に施した傷メイクは、我流ながらリアリティの高いものが出来たという自負があった。
 そんなカンナだったが、彼女を見たときには呼吸を忘れるほど驚いた。
(あれ……?)
 初め、カンナは目を疑った。喫煙スペースの脇のその植込みの前には、一瞬前までは誰もいなかったのだ。いつの間にか、悪魔の姿をした女性が、周囲の人々に溶けこむように自然に佇んでいた。

 彼女はどう見ても悪魔そのものだった。
 まるで、ハリウッド映画のスクリーンから飛び出してきたかのような迫力があった。
 全身の肌は淡いパープルで、髪は銀髪、瞳は灰色、頭からは山羊のような角が生え、コウモリのような大きな羽根と、黒い矢尻つきの尻尾を持っていた。着衣だけは人工物のようだった。黒いフェイクレザーのレオタードスーツに、ニーハイソックス、ロングブーツという黒ずくめの出で立ちだった。
 年齢はカンナと同じか、もっと若いかもしれない。格好は大人びているが、よく見ると少女のようなあどけない表情をしている。
 その日がハロウィーンでなければ、ひと騒ぎ起きたかもしれない。が、カンナ含め周囲の人々は、完成度の高いコスプレとしか思わなかった。
(ちょっと、そのクオリティ、ヤバすぎない……?)
 カンナは自分のゾンビ・ナース姿に引け目を感じた。傷メイクなどしなくても、ここまでリアリティを出せるものか、と感心した。

 マサキが喫煙スペースに到着したのは、それから間もなくのことだった。
 彼のやる気のないコスプレを見て、カンナは大きなため息をついた。

第二話に続く)


小説家になろう掲載作品

死を夢見る少女 〜最後の不死者〜 11

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 トゥルーバニラン。少女は確かにそう言った。
 それは、正史一七四二年に終結した『ローマニラの赤い薔薇期』と呼ばれる内戦によって、絶滅させられたはずの民族の名だ。

 ユーレディカ、と少女は名乗った。
「ユーリーでいいわ」と彼女は言った。アルフも彼女に名乗った。「アルフでいい」と。
 アルフは初め、ユーリーの先祖がどうにかしてあの戦争を生き残り、長い年月を掛けてヒノモト国に渡って来たのかと思った。だが、話を聞いているとどうも違うらしい。まるで、彼女自身が三百年近くの歳月を生きてきたかのような口ぶりだ。
 アルフは詳しく話を聞きたかったし、少女も説明したい様子だったが、もう日が完全に沈みつつあった。廃ビルの中にも夜の闇が侵入してきていた。
 ユーリーは最近、ここで寝泊まりしていたらしい。
 アルフは、自分の家に行こう、と提案した。
「ええ、そうしましょう」
 ユーリーもそれに賛成した。
 ただ、一つ問題があった。一連のやりとりの間中、絶えず腐臭を放っていた死骸の存在だ。ユーリーはそれを指差し、一言訊ねた。
「……アレ、食べてからでもいい?」
 アルフはただでさえ胃がむかつくのを我慢していたが、その言葉を聞いて本当に吐きそうになった。
 元々、轢死していた猫を彼女が自分の夕食にと持ち帰ったそうだ。
「口に合わないかもしれないけど……できれば、僕の家で一緒に夕食を食べない?」
「ああ、それはありがたいわ」
 人間離れした少女だったが、普通の食事でも問題ないようだ。ユーリーの同意を得て、アルフはほっとした。
 でも、せめて土に還しましょう。とユーリーは言って、再びその亡骸を抱き抱えた。
 帰宅したら、夕食の前にシャワーを浴びてもらった方がよさそうだ、とアルフは思った。

     ◇

「お帰りなさい。遅かったのね。……あら、お友達?」
 結局、帰宅したのは十九時半頃だった。
 ミナコの問いに、アルフは「さっき知り合ったんだ。名前はユーリー」とだけ答えた。
「ユーリーにシャワーを浴びてもらいたいんだけど、着替えを用意してもらってもいい?」
 ミナコはわずかな間の後に「ええ、いいわよ」と頷き、ユーリーを案内した。その間にアルフは一度、自室に戻った。
 マンションのバス・システムは比較的新しいタイプのものだ。ミナコはシャワーの使い方をユーリーに簡単に説明し、「何かあったら呼んで」と言い置いた。ユーリーがシャワーを浴びている間に、ミナコは彼女のための着替えを用意した。

 約二十分後、先にリビングダイニングに入ったアルフは、一人テーブルの席に座り、二人を待つ形になった。

第十一話に続く)


『小説家になろう』掲載作品

死を夢見る少女 〜最後の不死者〜 10

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 アルフにとって長い、しかし、たった数秒ほどの時間が経った。
 名も知らぬ少女は、アルフの右拳を自身の心臓に突き立て、まるで自身を貫くかのように力を込めた。
「……ぅぐぁっ」
 アルフは呻いた。少女の爪が腕に突き刺さり、右拳からめりめりと骨が軋む音がする。
 相応の痛みを味わっているはずなのに、少女は眉ひとつ動かさなかった。

 自失していたアルフは、痛みでようやく正気に返った。アルフは夢中で上向きに力を込め、体重を掛けて少女を思いっきり突き飛ばした。
 力こそ強い少女だったが、体重は見た目と変わらず、軽かった。少女は部屋の中央部に尻餅をついて倒れた。
 げほっげほっと、少女はむせ返った。
 アルフは左手で右手首を握った。ジンジンと痛む。もう少しで、骨が折れたのではないかと思った。

「――君は、いったい何者なの……?」
 アルフは右手を庇いながら、訊ねた。
「……びを」
「え?」
 呼吸を整えながら、少女が途切れ途切れの言葉を放つ。
「……滅びの魔法を、早く……。あなたは、アグロス=ナベルの末裔……」
 アルフは耳を疑った。なぜ、初対面の少女が自分の出自を知っているのか。

 日は徐々に落ちようとしていた。
 黄昏色の空は、ゆっくりと濃い紫色に変わりつつあった。
 アルフは少女の外見上の特徴を、だんだんと判別できるようになってきた。
 ボロボロの着衣を纏った少女は全身が汚れていたが、元は白い肌のようだった。ゆるくウェーブの掛かった金髪は胸まで達し、その波の上流では両の耳の先端が突き出していた。人形のように無垢な顔立ちをした一方で、大きな真紅の双眸は、まるで彼女を人外の魔物のようにも感じさせた。

「滅びの、魔法……?」
 アルフは、呪文のようなその言葉を口の中で繰り返した。
 少年のその反応に、彼女の表情は歪んだ。眉根を寄せ、悲痛そうに。
「……知らない、の……?」
 その表情を見て、アルフもまた胸が締めつけられるような痛みを感じながら、首を横に振った。ひょっとしたらそれは、俗に『アグロス=ナベルの魔法』と呼ばれるものの正体なのかもしれない。
 そう、と少女は言って、落胆したかのように視線を落とした。
 数拍の沈黙の後、アルフは別の質問を投げかけた。
「なぜ、僕のことを知っているの?」
 ジュホウを使ったから、と少女は答えた。呪法――呪われた魔法ということらしい。
「代償として、私は『眠り』を失った。これからも気が狂いそうになる時間を、眠らずに過ごさなければいけない」
 彼女は淡々と呟きながら、両手で自身の肩を抱いていた。
 アルフにわかったのは、彼女は睡眠を取らないらしいということだけだった。眠らずに生きていけたら、人の倍の時間を有効に使えるのではないか。少年は束の間、そんな夢想を抱いた。
「アグロス=ナベルの子孫が生きてるってことは、感覚でわかった。でもまさか、こんな極西の島国にいるなんて思わなかった。復活して最初の二年は、ローマニラ中を当てもなく探し回ったわ」
 話が見えてこなかった。彼女は何を言ってるんだろう。
 だが、その次に彼女が発した言葉は、アルフを驚愕させた。

「私はトゥルーバニランよ。あなた達が殺戮した、最後の生き残り」

第十話に続く)


『小説家になろう』掲載作品

死を夢見る少女 〜最後の不死者〜 9

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 それは血痕だった。

 どこからか、カラスの鳴き声が聞こえた。見上げると一羽のカラスが、剥き出しのコンクリートのビル壁から飛び去って行った。
 十二階建てのそのビルは、完成間近で放棄されたもののようだった。ビル壁に塗装はなく、窓となるべき開口部は、ただの空気の通り道となっていた。外から見る限り、人の気配は感じられず、さながら廃墟のようだった。
 アルフは、その廃ビルの入り口付近に血痕が落ちていることに気がつき、驚いた。
 夕暮れ時だったが、注意して見ればはっきり血の跡とわかった。血はまだ、乾ききってはいないようだった。
 不気味だった。治安の良いトキワ市の街中で日常、目にするものではない。誰かがここで怪我をしたのか。そもそも、これは人の血なのか。

 血痕は、廃ビルの中へと続いていた。
 アルフは一瞬、躊躇したが、次の瞬間には建物の敷地内へと足を踏み出していた。

 廃ビルの中は伽藍堂になっていた。約十五メートル四方のワンフロアの大部屋には、仕切りもなければ、デスク一つ、電灯一つさえない。
 薄暗闇の中、埃を被ったコンクリートのフロア上に、血の跡と誰かの足跡が続いていることが見て取れた。アルフよりも少し小さめの足跡だ。年若い少年か少女のものだろうか。
 アルフは恐る恐る、血痕をたどって歩いた。広い室内は音を立てると反響しそうだった。一歩一歩、スニーカーを慎重に地面に下ろしながら進んだ。
 赤黒い血の滴は、ビル内の非常階段を上っていた。アルフは所々で、物陰から前方を窺いながら、その跡を追った。

 四階までの道のりは、運動量としては大したものではなかった。しかし、アルフがその階にたどり着く頃には、緊張による動悸から、肩で息を吐いていた。
 鮮やかな赤い血の斑点が、階段から広い部屋の中へと続いていた。
 アルフは壁際から室内を覗き見た。人影が見える。小さな人影だ。だが、西陽が射して、姿がよく見えない。その何者かは、両手で何かを抱えていた。
 その何かから漂う血生臭いにおいが鼻を突き、アルフは眉をひそめた。
 アルフの額には、冷や汗が噴いて出ていた。その汗の滴が地面に落ちるとき、なぜかアルフは心の中で、しまった、と叫んでいた。

 ぴちゃり

 鼓動が跳ね上がった。
 聞こえないはずの滴の音が、アルフの耳に響いた。それは、その人影が抱えた何かから落ちた血滴の音だったかもしれない。
 まるでその音に導かれるかのように、人影がアルフを振り返った。表情は、陰になって見えない。

 ――あなたが…………やっと、見つけた……

 人影がそんな風に声を発した気がした。
 どさりと、彼女は今の今まで抱えていたモノを地面に落とした。そのモノに既に生命はなく、まだ暖かみを残したただの物質と化していた。それがひどい怪我をした猫の死骸だと気づくまでに、アルフには随分と長い時間が掛かった。
 アルフは口を開いた。だが、喉の奥がねばついて、声の代わりに隙間風のような音を立てるばかりだった。

 気がつけば、少女が目の前にいた。
 アルフより頭ひとつ背の低い少女。血と、夕焼けで全身を真っ赤に染めた彼女は、瞳の色まで紅かった。
 アルフはその場から一歩も動けずに、立ち竦んでいた。

 少女はアルフの利き手を掴んだ。
 アルフは一瞬、抵抗しようと試みた。しかし、少女の力は、その小柄な姿からは想像もできないほどに強かった。

 少女はアルフの手を、少女自身の心臓の位置まで持って行った。

「――私を、殺してくれる……?」

 少女は静かな声で、そう言った。

第九話に続く)


『小説家になろう』掲載作品