感動と文芸創作の種類

もう何年前のことだろうか。シドニィ・シェルダンの『私は別人』という小説を昔、読んだ。
その小説の中で、一代で富を築いたトビー・テンプルという天才コメディアンが、修行時代に師匠に言われた言葉があった。
その内容をぼんやりと覚えている。

師匠「コメディにとって最も重要な要素は何だと思う?」
トビー「ええと、どんなネタをやるかですかね」
師匠「違うね。いいかい、コメディの種類ってのは決まってるんだ。大事なのはキャラクターだよ。『いかにそれを面白くやるか』だ」

細部は異なるだろうが、だいたいこんな内容だったと思う。

「コメディの種類が決まっている」という言葉は当時の私にとって、少なからずショックだった。であれば、お笑い芸人が作るネタとは何なのだ。
今なら少しわかる気がする。
調べたわけではないが、そういうコメディについての研究があってもおかしくないと思う。

コメディの種類が決まっているのなら、感動の種類も決まっているのではないか。

そんなことを最近、ふと思った。

大切な人が亡くなるとき。ゴールを達成するとき。AHA体験。…。
私たちは感情に色々な名前を付けている。言葉にできない感情もある。
でも、「感動するときの心の動き」や「そのときにどんな出来事がどんな順番で起こるか」については、ある程度は類型化可能と言えそうな気がする。

これは即ち、「感動の種類」ではないか。

では、詩はどうだろうか?

詩の種類も同様に、決まっているのではないだろうか。

詩が読み手に感動を与えるもので、感動の種類が決まっているのだとしたら、そうだろう。
短い作品だとしたら、なおさら表現できるパターンは限られるのではないか。そんな気さえする。

この文章を読んでいる方の中には、こんなロジカルな思考を詩(あるいは芸術)に持ち込んでほしくない、と思う方もいらっしゃるかもしれない。
もしそうであれば、続きは読まない方が良いかもしれません。

しかし、こういう研究的な視点も、詩をより良いものにしていくために、必要なのではないか、と思わないでもないです。

とはいえ、詩が何であるかや、なぜ詩を書くかということは人それぞれだと思うし、それを規定するつもりはありません。

ここで焦点を当てるのは、「読み手に感動を与えることを意図して詠まれた詩」とする。
そして、これについてはもうパターンが決まっている、と仮定してしまう。

この仮定を置くと、現代詩やネット詩について、見えてくることがあるような気がする。

長くなってきたので、続きはまた、いつか書くことにします。

冒頭で紹介したシドニィ・シェルダン『私は別人』について、Amazon のリンクを貼っておきます。
ご興味あればどうぞ。